top of page

―5― 責任を与えられたキリスト者のとるべき態度 (2018.07.01)

   共同体のために責任を受けたキリスト者は、自分に委ねられた役割について度々考えることが不可欠です。なぜなら与えられた使命と選ばれた人の人格の間に、必ず緊張が現れるからです。つまりは共同体のために委ねられた責任のせいで、あるキリスト者は自分が無くてはならない者だと思い込み高慢になってしまいます。他のキリスト者は、自分は弱い物だと思い込み恐れを感じ責任から逃げるために色々と言い訳して逃げるのです。このようなキリスト者は神を無視しています。「神の力は弱さのなかでこそ十分に発揮されること」(2コリント12,9)を忘れています。

 高慢な態度や臆病に陥ることのないように、神により頼むことはとても大切です。神の助けがなければ私たちは何もできません。共同体のために責任を受けた人は、自分の心に忍耐と慈しみの道を整え、また霊的に成長するはずです。何でもできる自信のあるキリスト者は、神に絶えず感謝しなければなりません。同時に自分が弱く力が足りないと思っているキリスト者も神により頼み、神から力を取り見出すべきです。

 教会も、共同体も神だけに属するものですので、責任を受けたキリスト者はそれを適切に果たすために、神が必ず聖霊の力と智恵と豊かな恵みを与えることを忘れてはいけません。共同体のために責任のあるキリスト者は、謙遜な心で、信仰の兄弟姉妹に仕えるために召されていることをまず神に感謝しましょう。そして、委ねられた使命を終わりまで果たすことができるように、共同体の兄弟姉妹の祈りと理解が自分を強く支えるように切に願うはずです。

 「聖霊は弱いわたしたちを助けてくださいます…聖霊自らが、言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成してくださるからです。人の心を見抜く神は、聖霊の思いが何であるかを知っておられます。聖霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」(参照:ローマ8,26-27)と聖パウロは私たちに思い起こさせます。
 

-6- 上にあるものを探し求める (2018.07.08)

 

 「あなたがたは、キリスト共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」(コロサイ3,1)と聖パウロは勧めています。

土の中に根を深く下ろせば下ろすほど、木は上へ上へと伸びて高くなります。根のない木は、いつか必ず枯れてしまいます。普通の人間として生き、自分の信仰を養い、生かそうとしないキリスト者は枯れた木となっています。

 私たちはこの世に属すると同時に、天にも属する者です。地球人として日常生活の活動によって私たちは自分の人生の根を強くします。他の人に向って生きることで、その根は深く人類の良い土に入るので、知らないうちに私たちは思いやりと親切さを持ち、育てている人になります。

キリスト者は、天と地の交わりの内に生きると、同時に人々と神に向かって生きていかなければなりません。「流れのほとりに植えられた木」(詩編1,3)のイメージを借りて聖書の詩編はこの状況を描きます。「流れのほとり」である私たちの隣人の世話をすることで私たちは神の栄光の内に引き寄せられています。詩編が教えている通り「その人は時がめぐりくれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と。

私たちは天にあるものを受け止めるために、地上の人々を大切にします。神が望まれる実を結ぶことによって、私たちも、他の人々も豊かになります。また、謙遜で、へりくだった生き方を保つことで、私たちは神のレベルまで高められています。ですから、謙遜に、隣人愛に根を深く下ろしながら、神の方へますますと成長しましょう。

 

―7- 聖霊が与える一致 (2018.07.15)

 

 聖霊はキリストの教会を様々な賜物で潤します。特に聖霊は教会に一致の恵みを与えます。それはキリストの体の部分である私たち一人ひとりの内に教会全体が親密に留まるためであり、そして教会が自分の普遍的な広さを保つためです。

  

 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているのです」(ローマ5,5)と聖パウロは教えました。キリスト者が、一人で祈れば秘跡的に、彼の心の中には、世界に広がっているキリストの教会が入り込みます。そいう訳で、一人で祈る人は、聖霊によって「わたし」ではなく「わたしたち」と言います。詩篇が教えている通り、たった一人で誰も自分のそばにいなくてもダビデは「わたしと共に主をたたえよ。一つになって御名をあがめよう」と祈ります。司祭も、共同祈願を唱える人も、いつも、一人で皆の声になって祈ります。「主よ、私たちの祈りを聞き入れて下さい」と願います。孤独の中にいて、一人で「主の祈り」あるいは「アヴェ・マリアの祈り」を唱えるキリスト者は「天におられるわたしたちの父よ」あるいは「罪びとの私たちのためにお祈りください」と祈願します。この祈り方は秘跡的に、一人の人をすべてのキリスト者と一致させます。

 また大勢集まっている時、聖霊の交わりの内に、私たちはキリストの神秘的な一つの体となったので、一緒に祈る時に「わたしたち」ではなく「わたし」と言って祈ります。例えばミサの初め、罪の赦しを願う時、皆と一緒に「わたしは思い、ことば、行ない、怠りによってたびたび罪を犯しました」と告白します。信仰宣言を唱える時も「わたしは信じます」と宣言します。この祈り方は、私たちがキリストと一致していることを思い起こさせる目的を持っています。

 私たちはキリスト一致しているので、一人でも大勢でも聖霊が与える一致の恵みの内に生きています。一人であっても皆の代わりに一つの声になって祈り、執り成すことを勧めています。そして大勢のキリスト者は一つの体になり、ただ一人だけのためにも神に向かって祈ることもできます。

一人ひとりに留まる聖霊の力が、すべてのキリスト者を包み一致させ、また大勢の人々を一つの体、一つの心、一つの魂とします。神に感謝して祈りながら、聖霊と共に神秘を少しずつ理解して深く探りましょう。
 

―8- 神の言葉 (2018.07.22)

 神の言葉は命であり、人を成長させ、導き、完成まで引きよせます。赤ちゃんが母の胎内に居る時から両親が待たずにその子に声をかけます。勿論、子どもは言葉の意味は分かりません。しかし、たくさんの言葉を聞くだけで自分の両親の愛と優しさを強く感じています。その雰囲気のうちで既に十分に育てられています。また子どもが生まれた時にも、両親がずっとその子と話をします。子供が言葉の意味を理解するまでには、2年位かかります。それから両親は子供の幸せと教育のために、もっと多くの言葉を子供に教えます。そうすることで両親は子どもが社会に入るための準備をしているのです。

 私たちが創造される前に、神も私たちをずっと愛し、命と愛の言葉を私たちに語りました。昔アブラハム、モーセ、そして大勢の預言者を通して語られた貴重な言葉を伝えました。ご自分の言葉であるイエスを通して預言者が語ったことを実現したので、その意味を悟らせました。現在では、神は教会を通して私たちに語り続けています。神の言葉は命であり、人を成長させ、教え、完成まで導きます。

 神の言葉は、私たちを養い、かたち作り、自分に関して神秘を理解させ、神に対して、また世界と宇宙万物に対しても色々な悟りを与えます。私たちは神と一致するために、神の心を味わうために、聖書を開き、そこに語られている命と智恵の言葉に耳を傾けるのは肝心な務めです。父としての神を認めるには、子としての態度を見せるのは当然ではないでしょうか。

―9- 神を賛美することはとうとい大切な務めです (2018.07.29)

 詩編91番と92番は「いかに楽しい、主に感謝をささげることは」と歌っています。またミサの奉献文に先立つ叙唱も同じ教えをしています。「聖なる父よ、いつどこでも主・キリストによって賛美と感謝をささげることは、まことにとうとい大切な務めです」と。しかしラテン語の言葉を参照するなら「とても良い、利益のある正しい務めです」と翻訳されています。

 詩編が教えている通り、賛美と感謝をする人は神の親密な保護を引き寄せると同時に天使たちの仲間になります。私たちはいつも天のすべての天使と聖人と共に声を合わせて賛美の歌を歌い、終わりなく神の栄光をほめ歌います。賛美と感謝は人をあらゆる問題に敏感にし、賢くし、また神の名を効果的に呼ぶ恵みを与えます。言い換えれば、賛美と感謝は人を神の親しい友とします。そして賛美する人は「なつめやしのように茂り、レバノンの杉のように神の家にそびえます」。

 神は私たちの賛美と感謝をご自分の玉座とするので(詩編22,4)、詩編は一日7回(詩編119,164)、そして真夜中も起きて(詩編119,62)賛美を捧げるように私たちを誘っています。賛美と感謝は人の心を和らげ、神への揺ぎ無い信頼を与え、自分の上にも、他の人の上にも幸福を引き寄せます。いつどこでも主・キリストによって神に賛美と感謝をささげることは、利益のある正しい務めです。ですから、詩編30番13節の願いを自分の望みにしましょう。「わたしの魂が神をほめうたい、沈黙することのないようにしてくださるように」と。

bana2a.gif
bottom of page