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-2- キリスト者は3 回生まれる (2018.06.10)

 

 ご存知だと思いますが、私たちはキリスト者として、3回生まれます。最初はこの世に生まれた時、次はキリストを信じて洗礼を受けて神の子として生まれた時、最後に死を通して永遠の命に入る時。私たちが十字架を切る時に、この3つの誕生の意味をはっきりと示しています。

 父なる神は、私たちがお母さんの体内に居た時から、人間に必要な命を与えました。この世に生まれた私たちはこの命を大切にするように要求されています。

 洗礼の水が私たちの額(ひたい)に注がれた時に、キリストは信仰生活に必要である、ご自分の命を私たちに与えました。神の子として生まれ変わった私たちは、キリストの御体(おんからだ)と御血(おんち)をいただくことによって、益々キリストと親密に結ばれ、彼と一体となります。ですからもはや生きているのは私たちではなくキリストが私たちの内の生きています。

 永遠の命に生きるために,即ちキリストの復活が与える命に生きるために、聖霊は私たちを死から命へ移し、愛の完成まで導き、私たちを聖なる者へと変化させます。永遠に生きる事こそ、神の栄光です。

昔、洗礼を授けるとき、司祭は洗礼志願者を3度完全に水に浸しながら「父と子と聖霊のみ名を唱えました。現代では、司祭は洗礼志願者の額(ひたい)に3回水を注ぎながら、三位一体の神の名を唱えます。昔のやり方も、現代のやり方も、また聖水で自分に十字架のしるしを切るときも、私たちが3回生まれることを思い起こさせます。
 

-1- 聖堂を出入りする人の祈り (2018.06.03)

 

   聖ベネディクトの戒律によると、院長から頼まれたことを果たすために、修道院の外に出る場合には、修道者はまず修道院の仲間たちへの祈りと神の祝福を願います。そして修道院に戻って来る時にも、仲間たちへの祈りと神の赦しを乞い求めます。その理由は、外にいた時に見てはいけないことを見たり、話してはいけないことを話してしまったり、不注意のせいで罪を犯したりして躓きとなったりするかも知れないからです。

   私たちもミサ祭儀が終わる時に、自分の家に戻る前にみんなの祈りの助けと神の祝福を受けます。そしてまた、次の日曜日に教会に戻って来た時、ミサの初めに私たちみんなが犯した罪と過ちのために神の赦しを願うと同時に信仰の兄弟姉妹に祈りの執り成しを願います。

   このやり方は、私たちの内に謙遜とお互いの信頼を生み出し、そして、私たちの信仰を強めます。信仰の兄弟姉妹が私たちのために祈るから、私たちは日常生活の出来事の中でキリストを発見し、聖徒の交わりの神秘を生きているのです。

-3- 聖体拝領の規則 (2018.06.17)

 

 聖体拝領をすることは信仰の行いです。なぜなら、キリスト者はキリストと一致することを望むからです。従って、ご聖体をいただくために幾つかの大切な決まりがあります。キリスト者は、聖体に対する罪を犯さないために、それをきちんと守らなければなりません。

第一の条件とは、カトリックの信仰の内に洗礼を受けること。
次に、大罪を犯していない状態にいること。

 聖体拝領を受け続けるために、信者は少なくとも一年に一度、復活祭の頃に、罪の赦しを受け、司祭が与えた償いを果たしたのち、聖体を拝領するようにしなければなりません。

 もし、大罪を犯した状態でミサの前に重大な理由があって、赦しの秘跡を受けることが出来ないままミサに与かった場合、ミサ後すぐ、必ず赦しの秘跡を受けるという強い決意があれば、その日のミサ中に聖体拝領ができます。

 ミサに与る一時間前に(薬と水、意外に)口に食べ物も、飲み物も入れることは禁止しています。

しかし、教会へ行けないような老齢者や病気で入院している人は、食後10分位経てば、聖体拝領ができます。

病人のお世話をする人もこれに該当します。 

 離婚した信者は、同棲生活をしない限り聖体拝領ができます。しかし、離婚して再婚した信者、あるいは同棲生活をしている信者は聖体拝領はできません。

 信者は一日に一回しか聖体拝領はできません。しかし 特別な出来事の際に(結婚、葬儀、叙階式、教会記念)司祭の許可を受けるか、あるいはミサ中にもう一度受ける事ができるというお知らせがあれば、聖体拝領ができます。

 信者が手術を受ける前、あるいは臨終の枕辺にある時、罪の赦しとキリストの御体を受けるために司祭を呼ぶことは望ましいことです。
 

-4-教会の中と典礼の中の沈黙について (2018.06.24)

 聖堂に入る時、最初にとる態度は何よりもまず、神の前に少しでも静かに祈ることです。教会は神の家です。ですから、もし自分が神の子だと認めるなら、神に「ただいま」を言うことは当たり前のことです。それをしないキリスト者は、神を無視し全く尊敬していません。ミサが始まる前に、沈黙を守ることも神への愛と尊敬のしるしであると同時に、祈っている兄弟姉妹への尊敬の敬意を表す態度です。皆がここに来るのは、主と出会うためですので、沈黙がなければそれができません。なぜなら、沈黙を通して神は私たちの心に語るからです。もし私たちが、聖堂で他の人々と話しているなら、神はご自分の声を聞かせることができません。

 ミサ祭儀の中でも、典礼は沈黙の時を私たちに与えます。例えば、回心への招きの後に、あるいは各祈願の前に、そして詩篇を歌う前に、ミサ中で最も長い沈黙である聖体拝領が終わる時など。沈黙は祈りと等しいものであり、特に私たちの霊的な姿勢を示すものです。沈黙を通して私たちは神の声と聖霊の働きかけに敏感になり、キリストに倣って自分の計画や自分のしたいことを忘れて、ただ神のみ旨を行ないたいという決意を掴(つか)みとりことができます。沈黙は神の神秘に対して奥深く考える、深い知識を豊かに与えるからです。

 神の教えと恵みを受けるためには、静かな心・注意深く傾ける耳・閉じた唇が必要です。それについて詩篇62編の言葉が助けになります。「私は静かに神を待つ、私の救いは神からくる」と。

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