カトリック 武 庫 之 荘 教 会
-39-キリストの体 (2019.03.03)
母マリアから生まれることによってイエスは、すべての人を救うために、人間の体を受けました。肉となった神の御言葉であるイエスは私たちと供に住み、罪の方かは私たちと同じように生活しました。私たちの間に宿られたイエスは、友情と裏切り、寂しさと喜び、涙と怒り、飢えと渇き、疲れと悩み、侮辱されることとほめたたえることを体験しました。死刑の宣告を受けたイエスはまた十字架の上に死に、墓に葬られ、三日目に復活しました。
栄光の内に上げられ、神の右に座っているイエスは全人類の初穂としてすべてを新たにし、永遠の命の道を整え、天の門を開いてくださいました。復活したイエスの体はもうはや肉の体ではなく、霊的な体であり、栄光の体です。この体はまた神の神殿であり、特にミサの時に聖変化されるパンとぶどう酒の姿で、即ち聖体の姿で、キリストの体は私たちに神の現存のしるしとなっています。キリストは 今から後私たちと供にいるだけではなく、私たちの内にとどまるのです。キリストの体は私たちを新たにし、養い、強め、成長させ、聖とします。と言うのは、キリスト聖体の拝領によって私たちはキリストと一致して一つの体、一つの心、一つの霊となります。言い換えれば、キリストの神秘的な体となります。その事実についてと聖パウロは上手に説明しました。「あなたがたはキリストの体であり、また1人1人はその部分です}」<1コリント12,27)。これによってイエスは本当にわたしたちの肉を取っていることがはっきりと示されています。私たちはキリストと共に一つとなっています。そのために私たちも聖パウロが言われたことを宣言します。{わたしにとって、生きるとはキリストです」(フィリピ1,21).
キリストの体は全人類の一致を実現しますので、すべてはキリストの内に集められています(エフェソ1,10)。ここにキリストの体である教会の神秘があります。キリストに結ばれている私たちもイエスのようにいつか復活し、神の栄光に包められるでしょう。その時「私たちの卑しい体を、キリストの栄光ある体と同じ形に変えてくださるので」(コロサイ3,21)
-40- 神に叫ぶこと (2019.03.10)
聖書と教会の典礼の中で次の叫びが聞こえます。「主よ、わたしを力付け、急いで助けに来てください」。この呼びかけは信じる人の祈りを完成します。この叫びの中で全人類の悲劇と苦しみ、希望と信仰があります。
神の助けを願う人は 自分の弱さと惨めさを認めながら、自分が限られていること、退けられない状況によって圧迫されていることを宣言します。神の助けが一日早く与えられるように願うことは謙遜からわきでるさけびです。神の助けがなければ、私たちは何も出来ないからです(参照:ヨハネ15,5)。しかしバビロンの王であったネブカドネツァルのように、大勢の人々は神の助けなしに何でも上手にできたとじまんします。「なんとバビロンは偉大ではないのか。これこそ、このわたしが都としてたて、このわたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示す者だ」(ダニエル4,27)と。神なしに働く人々の苦労と作られたものはすべてむなしく消えます。い(参照:エレミヤ51,58と詩篇127,1)
神の前で自分の弱さと間なし差を認めることは福音的な貧しさの表現であります。決して自分を責めることや、自分を軽蔑し、自分をけなすことではありません。「神よ急いで、わたしを助けに来てください」とさけぶことは 神への信頼と信仰の叫びですから、司祭と修道者の毎日の祈りは、(朝、昼、晩と夜)この願いから始まります。この謙遜と信仰で満たされているこの叫びが私たち一人ひとりのくちから出るように神は待っておられます。そして次の願いもまっておられます・「神よ、わたしの口を開いてください、わたしはあなたに賛美をささげます」(参照:詩篇51,15)と。