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―23― 「陰府よみの国」って何でしょうか    (2018.11.4)   

 

 

     「主は…十字架につけられて、死に葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、…」と私たちは宣言します(参照:ペテロ3,18-20)。旧約聖書によれば、亡くなった人々が住んでいるところを「陰府(よみ)」とか「シェオル」とか「ハデス」と言って, この場所は「すべての生き物の集まる家です」(参照:ヨブ30,23)。この住む場所とは大きな墓、あるいは深い淵のようなものです。他の多くの民族と同様にイスラエルの民も、死後の生き方は暗闇の中にあり、そこで何の価値も、喜びもないと思われていました。 神を見ることができない状態に置かれて、正しい人であるか、悪い人であるかを問わず、ここですべての死者が救い主、あがない主を待っていました。  

 

    十字架上で亡くなったイエスは、すべての人に救いを与えるために、神としてのご自分のペルソナと結ばれた霊魂の状態で、ご自分より先にあらゆる時代の亡くなった人々のもとに降(くだ)りました。そして、実現された救いの業を説明し、それを受けたい人々と正しい人々の死の鎖を砕(くだ)き、彼らを天国に連れて行きます。それによってイエスは罪と死に対するご自分の勝利を現します。その後、復活するイエスは「命の導き手」(参照:使徒3,15)として「天上のもの、地上のもの、地下のもの」すべてを支配し、救いに導きます。 

 死に捕らわれていた者を開放するために、イエスは陰府(よみ)の門を開きました。

しかし、悪人のために陰府の門は永久に閉ざされ、地獄の門と変化し、

そこから出ることはできません。

永遠の滅びは「第二の死」(参照:黙示録20,6と,21,8)と呼ばれています。

命の導き手であるキリストから離れると命がないからです。   

―24― 煉獄とは何でしょうか  (2018.11.11)      

 

   私たちが生きている間は、神の恵みを受け入れることも、拒否することも、私たちの自由意志に任されています。しかし、死がそれに終止符を打つのです。人は死ぬとすぐに、自分の人生においてキリストとのかかわりについて、私審判(ししんぱん)を受けます。その結果、ある人はすぐに天の永遠の報いを受け、ある人は清めを経た後で天に入り、あるいは、永遠の苦しみを受けます。

 

    神との親しい交わりを保っていたとしても、完全に清められないままで死を迎えた人は、天国での喜びに入るために、ある浄化の苦しみを受けると教えています。教会は、この最終的浄化を「煉獄」と呼んでいます。ジェノヴァーヌの聖カタリナの証しに寄れば、煉獄にいる人のすぐ傍には、その人を力づけ、励まし、慰める守護の天使がいます。煉獄にいる人は、神の愛と正しい正義をはっきり悟りながら,自分がその愛を受けるためにまだ相応しくない状態にいると理解しているので苦しんでいます。同時に神の愛がすべての罪の汚れからその人を清めます。

 

      初代教会は、死者の記念を重んじて、死者のために祈り、断食、犠牲を行い、特にミサを捧げていました。それは、死者が清められるため、彼らの魂の苦しみを和らげるため、また天の国に一日も早く入ることが許されるためです。教会は今も私たちに、死者のために、施し、免償、償いの業(わざ)をするように勧めています。煉獄から開放された人々は、自分のために祈った人に必ず天国から恩と必要な助けを返します。

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-25- キリスト教的な祈り   (2018.11.18)

 

 祈りは神への信頼と信仰の行いです。イエスは神に向かって祈るとき「アッバ・父よ」と言っていました。また私たちにも同じように神に向かって祈ることを教えました。 イエスの祈り方の特徴は、神に対する信頼と親しさです。

 

 祈りとは、神の前に自分のありのままを差し出すこと、そして委ねることです。自分を忘れて、神の愛と慈しみ深い心を思い、生涯にわたって受けた恵みを思い巡らしながら、神に賛美と感謝をささげるのは祈りの第一歩です。神とずっと結ばれ続けるために一日の生活の中で、短くても必ず祈ることはとても大切です。キリスト者はすべての状況を祈りの場とします。(例えば、バス、電車、車、待合室、歩きながら、買い物をしながら、公園、自分の家、図書館など)

 伝統的に「祈りは神との対話である」と言われています。一方的に神に話すだけでは対話になりませんので、神が語りかけていることを心に思い巡らすことが大切です。そのために絶対に必要なことは「沈黙」です。

 

 個人的に一人で心の中で祈ることが大切です。しかし声を合わせて家族的に、共同体的に祈ることも大切です。 また、自分のためだけではなく、他の大勢の人のために祈ることも大切な務めです。祈りは時間と空間を超えて、神のもとで私たちを繋(つな)いでくれるものです。祈りは、親密に、神秘的に神の愛の内に、あらゆる時代の人と天使と聖人と自分を一致させます。ですから祈る心を育て続けましょう。

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-26- 聖体訪問    (2018.11.25)

 

 聖体は、ミサの中で配られ拝領するだけではありません。カトリック教会の聖堂の中心には、聖(せい)櫃(ひつ)という聖なる箱が置かれ、その中には聖体が安置されています。聖櫃のそばに置かれている赤いランプはキリストが、いつも私たちと共におられるという明確な生きたしるしです。ですから、ミサ以外に聖堂を訪れる人は、いつでもキリストと出会うことができるのです。  

 

 聖体の前で祈り、礼拝することは、現存される主イエスとの霊と心の対話であり、交流、すなわちコミュニケーションです。イエスは祈る人に慈しみ深い眼差しを注ぎ、魂を養い、心の傷を癒し、そしてご自分の愛と救いの光でその人の人生を照らします。ちょうど浜辺で太陽の光を浴びて肌を焼く人々のように、聖体訪問をする人は神の愛の光を受け、美しくなります。そのために聖体顕示台(オステンソリウム)は太陽の形をしています。 主

 

 イエスは、聖堂の聖櫃の中で、静かに私たちを待っておられます。しかし、最近は聖体訪問をする人が、あまりにも少なくなってしまいました。多忙で合理主義に支配された現代の日本社会において、単純に信仰を表し、神との時間を優先する価値観が、失われてしまっています。

 

 イエスに挨拶せずに、小聖堂の前を通り過ぎてしまう兄弟姉妹があまりにも多いです。聖体訪問は、空虚で学問的な空想ではありません。生ける神の愛の現存への実践的な信仰の表明です。自分の教会で、また他の教会で、是非ご聖体を訪問する習慣を見につけてください。待っておられる主イエスにご挨拶して、心の思いや願い、悩みなどを話してみてください。 誰よりもあなたを理解し、あなたの全てを知っておられる主イエスは、あなたを信仰の火と愛で満たし、最善の道へとあなたを導いてくださいます。時間が無いのなら、挨拶するだけでも良いです。ずっと私たちを愛してくださるイエスを無視しないように務めましょう。

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