カトリック 武 庫 之 荘 教 会
-35― 従順 (2019.02.03)
従順とは強制的な行いや盲目的な態度ではありません。従順は神の計画に対する自発的な同意と行いです。人間は従順によって自分の生涯を神への奉仕に変え、神の喜びの中に入ることになります。従順と言う日本語の言葉は、聖書が意味していることをあまり上手に伝えていません。他の通訳をすれば、従順とは「言われた言葉に耳を傾けること」です。聖パウロがイエスについて「彼は、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2,8)と書いた時、彼は決して「イエスは強制的に、盲目的に神の命令に従った」などと書きませんでした。むしろ、イエスは、苦しみを通して死ぬ日まで神の言葉に忠実に耳を傾けて、言われたことに同意して、自由に、謙遜に言われたことを実現しました、と言いたいのです。
従順と信仰が結ばれていることを聖書全体が教えています。「わたしの声を聞くなら、心を閉じてはならない」(詩篇95,7)と神は度々願います。「耳のある人は聞きなさい」(マタイ11,15)とイエスも繰り返します。神を信じる人はどうしても神の言葉に耳を傾けて、言われたことは幸福をもたらすことができると理解した上、自由に、また謙遜にそれを行う人でなければなりません。言い換えれば、従順は自由を与え、神の終わりのない幸せに導き、さらに従う人を義とします(参照:創世記15,6)。キリスト者は、神に忠実に仕えるために従順である以外のなに者でもないことをよく理解しましょう。神の言葉に従うことは、神に栄光を与え、世界の人に救いをもたらす信仰の行いです。
そういう訳でキリスト者は、特に迫害の時、人間に従うことよりも神に忠実に従うことを選ばなければなりません。キリストに倣って、キリスト者の苦しみを通して死に至るまで従順であるように召されているのです。神が私たちに従順を要求するのは、神には実現すべき救いの計画、建設すべき宇宙があり、そのためには、人間が信仰によってこれに同意し、神に協力する必要があるからです。従順は信仰の行いと信仰の実です。
-36-聖伝、伝統、伝承 (2019.02.10)
どの人間社会にも、昔から伝えられた生き方や教えや礼儀の作法などがあります。時代によってこれらの言い伝えの行ない方が変わったり消えたりします。しかし、神が教え啓示されたことに対して、時の流れがそれを変えることはできません。神の教えは永遠ですから。イスラエルの民もキリストの教えに従う人も、神が啓示されたことをきちんと守り、また自分の子孫に伝える義務と責任を持っています。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(申命記:6,6-7)と、神が私たち一人ひとりに願っています。
聖伝、伝統とは、様々の典礼的な儀式をどのようにするのかと教えることではなく、ただ神の永遠の言葉と自分の信仰を伝えることです。更にキリストが記念として残したミサ祭儀に毎日曜日に与かることです。他の伝統的な印や行いは、私たちの信仰を支えるものです。大切なことは自分の信仰を守り、洗礼の秘跡を子供たちに与え、教えを伝えることです。
聖パウロは手紙の中で次のことをたびたび願っています。「わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(2テサロニケ2,15)。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(1コリント15,3)。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11,23) と。聖パウロに倣って私たちも教会と共に、神が啓示されたことやキリストが教えられたこと、そしてこれに対する信仰を、聖伝あるいは伝統として正しく伝えるために、どうしても聖霊の助けにより頼むことが肝心です。
-37― 隣人愛 (2月17日)
隣人愛の行いを実行することはとても難しいです。私たちは長年に亘(わた)って、ある人に対して怒りと恨みを抱くことができるからです。隣人愛について二つの態度があります。第一の態度とは、自分の世界に入り込んで、自分に合う人間関係を選び、人生の問題を避けて無関心になって、自分と会わない人を無視するという態度です。第二の態度とは、自分に起こる問題に直面して、我慢しながらその人を大切にする方法を探して、その人に表面的な挨拶と微笑を交(か)わしますが、本人も気が付かないうちに自分が心理学者のような態度をとり偽善者となる態度です。この二つの態度の根本的な土台は利己主義、自己中心主義であり、言い換えれば自己愛です。
隣人愛を実現するためにまず私たちは正直に「愛すことを知らない」と認めなければいけません。いくら人々に対して良いことをしても、その人たちの過ちを赦しても、自分の自己愛のせいで自分のように人を愛することはできません。そのことが分かれば、問題は他人の欠点や短所、言い方や態度ではなく、自分自身だと知るようになります。これこそイエスの弟子たちの発見でした。受難の時、イエスを愛していた弟子たちは彼を捨てて逃げました。ペトロはイエスや自分の仲間たちと全く関係がないと誓い、ユダは自分は赦されないと思って自殺しました。
私たちは正しく愛することを知りませんが、神の憐れみに希望して決して絶望しないことが肝心です。聖ヨハネが教えている通り「ここに愛があります。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛したのです。」(参照:1ヨハネ4,10)。神の愛が私たちに先立っているからこそ、私たちの弱さにも拘らず、いつか必ず愛の完成まで導かれます。拙(つたな)くても隣人愛を実現しようとすることによって、私たちはその愛を望み、目指していることを証ししています。
-38― 神に対する畏敬と恐怖 (2月24日)
大自然の災い、神の神聖と権能、自分を越えるものに直面して人は畏敬と恐怖を感じます。神への畏れにはこのように様々の種類があり、それぞれ差違はありますが、いずれも人間をより深い信仰に導く助けとなっています。
アブラハム、ヤコブ、モーセ、イザヤ、ダニエル、キリストの弟子たちなどは、神の神聖やイエスの権威と行なわれた奇跡に直面して、初めて恐怖を感じました。しかし、段々この恐怖が神への信頼に変化しました。「恐れることはない」と聖書全体にわたって神とイエスは繰り返しています。このように、神への信仰は人間に安心感を与える源であり、人間的な恐怖を取り除く強い力です。真(まこと)の信仰者は、神への信頼に支えられて心の中からすべての恐れを追い払います(参照:詩篇23,4 、27,1 、91,5-13)。この揺るぎない信頼の現われは、神の畏敬と呼ばれています。
しかしながら、神が人間に益となる恐れを与えることもあります。たとえば神の怒りと裁き、あるいは地獄の永遠の苦しみを思い出すと人間は恐怖を強く感じます。イスラエルの民の歴史は神の怒りがどのような恐ろしい罰をもたらすかをよく示しています。 しかし、この恐れと恐怖は、罪人が改心できる可能性を必ずもたらします。
旧約聖書の律法は、神の怒りに対して恐怖を持つように私たちに教えました。新約聖書の教えとイエスの愛の掟は、神を恐れ敬う心を私たちの内に形作ります。と言うのは神ウを愛する者は、たとえ良心に攻められるようなことがあっても、もはや厳しい罰を恐れません。実に、自分の罪に自覚めながらも、人間を義とする神の恵みに信頼するキリスト者に対して、新しい生き方を開始させます。それは、もはや奴隷的な恐れではなく、神の子とする霊による生き方です(参照:ローマ8,15)。 恐怖は神から人を遠ざけますが、神への畏敬は人を神に近寄らせます。神と隣人を愛することによって神への畏敬を育てましょう。