カトリック 武 庫 之 荘 教 会
―10- 神のみ旨を行なうこと (2018.08.05)
現代人の問題は、何かを決める事を恐れでなかなか決める事ができないで、やっと決めても、結局決めたことを言い訳をして実現しない怠惰を持っています。矛盾した望みや欲望が絶えず私たちを攻撃するので、私たちには何が必要か、何を選ぶかが、難しく簡単に選べないのが事実です。家庭の問題、あるいは社会の規定、更に自分の良心や信仰が要求することに縛られている限り、私たちが自由に考え・選び・決めるのは至難の技です。
「あなたは自らの意思を避けなければならない」(シラ書18,30)シラ書は忠告しています。同様に私たちも祈る時には、神のみ旨が行なわれるように願い求めています。ですから自分の意志を行ってはならないという教えを実践するのは当然なことです。まず、ダビデに習って私たちも「主よ、私の欲望はすべてみ前にあります」(詩篇38,10)と言いましょう。
普通人間は自分を中心に置くので、起こる出来事は差し迫る危険になるか、あるいは楽しみの泉になります。その時に人は自分の智恵のはかりで、出来事のよさと悪さを決めがちです。このジレンマから人を救うために神は正しい方法を、ダビデを通して教えました。というのは望む希望や欲望を自分の前にではなく、神の前に置く賢明な方法です。ここから謙遜と信頼の恵みが豊かに与えられています。神のうちに自分のすべてを委ねるなら、神は必ず選んだものや決めたことを完成まで導くように救いと摂理の手を差し伸べられます。
-11- 神の摂理 (2018.08.12)
神の摂理は、宇宙のすべてを完全に支配されています。この中に、全体としての宇宙(詩篇103,19)、物質的世界(マタイ5,45)、各国の政治(詩篇66.7)、人間の生と運命(ガラテヤ1,15)、人間の成功と失敗(ルカ1,52)、そして神の民の守り(詩篇4,8)が含まれています。 神の摂理の目的は、神のみ旨を成し遂げることです。
この事実を固く信じて、キリスト者は歴史の流れの中の神の働きかけを見つけるのです。神はまた自分の救いの計画を実現するために、人間の悪と罪を利用します。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために今日(こんにち)のようにしてくださったのです」(創世記50,20)とエジプトの管理人とされたヨセフは、自分を奴隷として外国人に売った兄弟たちに説明しました。
神はすべてを支配します。しかし、人間はいつも自由に自分がしたいことを選ぶことができます。人間が間違った選択をしても、神は彼を見捨てられません。摂理を通してその過ちを変化させ正しいい者とします。そして、犯した失敗から良いものを取り出します。というのは、神はいつも悪に打ち勝つ方ですから。神の摂理は、人間の日常生活のあらゆる面で必ず成功と幸せを保証します。そのために試練のときに、私たちは盲目的に神の摂理に依り頼まなければなりません。神が人生の出来事の中に直接に関係しなくても、必ず傍にいて一緒に歩むのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28,20)とイエスは約束しました。
愛する息子イサクを生贄(いけにえ)にしようとした時、献げるべき小羊がないと心配していたイサクに、アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22,8)と答えました。この信仰は、聖パウロの信仰であり、また私たちの信仰です。神は愛をもってすべてを完成します。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8,31)、「神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8,39)と、私たちはよく知っています。私たちの助けであり、力と救いである神はお定めになったことを、摂理を通して成し遂げられます。神の摂理は、神のみ旨を成し遂げること、そしてすべてが私たちの救いと良い利益にすることをします。
-12- 罪を償(つぐな)うこと (2018.08.19)
赦しの秘跡を受けたのち、司祭は償いの業(わざ)を指定します。償いの業は、主の祈りやアヴェ・マリアの祈りなどの様な易しいものが多いです。勿論、本来的な意味での償いの業は、短い祈りだけで終わるものではありません。罪を償う決心とは「罪を招く危険な機会を避ける決意」を実際の行動として行う必要があります。また、罪を招く機会を自分の心の底からなくすよう、痛悔を続ける必要もあります。もちろん、良心の糾明、痛悔、告解、償いの決意をしてもなお、また同じ罪を犯してしまう人は、私も含めて、大勢いることでしょう。
事実を言えば、自分の犯した罪について持っている恥しい気持ちは、償いではありません。行なった悪いことを認めても、神に自分の心を向き直さない限り、償いだとは言えません。罪を償う人は、無償で受けた神の赦しの力で回心できると信じています。また罪を償う人は、神に向かって生きたい、ただ神によってだけ生きたいという決意を表しています。同じ罪の赦しを受けても、また何度もその罪を犯していても、その人は少しずつですが神の愛に近づけるようになると信じて諦めずに何回も、何回も罪の赦しを受けます。なぜなら、神の慈しみは限りのない永遠の恵みだとその人は信じているからです。神の愛のためにだけ罪の償いを実践した時だけが完全な償いです。
-13- 神との出会い (2018.08.26)
「感謝に満ちて教会の門をくぐり、賛美を歌って聖堂に入る、神に感謝をささげて、その名をたたえよう」と詩篇100編が誘います。しかし、残念なことにこの正しい方法で神と出会うキリスト者は非常に少ないです。大抵の人は教会の門をくぐってから、すぐに他の人とお喋(しゃべ)りをします。また、聖水で自分の体に十字架のしるしをしても、自分が三位一体の神の名によって洗礼を受けたこと、愛される子として父なる神と出会うために教会にきていることを考えていません。まして、その十字架の切り方は丁寧に行なわずに、まるでハエを追い出すような動作で、大急ぎで崩れた形の十字架を切っているのではないでしょうか。更に、自分の席に座って静かに祈らずに、あるキリスト者はカトリック新聞や他のパンフレットを開いて読んだり、スマートフォンでメッセージを送ったり、隣の人と大きな声で話しをたりしているのが目立っています。
私たちは神に賛美する心を失っていないでしょうか。神の名をたたえることは 自分の上にも、親戚や友だちの上にもたくさんの恵みを引き寄せることです。神に向かって賛美しながら、天の喜びで自分の心を満たすように私たちはこの教会に来ました。私たちは、ミサが始まる前に一人で数分間、神と顔と顔を合わせて、普段の生活から離れて、神の親密さを味わう準備が必要だと知っているはずです。もしそれを知らなかったのなら、または忘れていたなら、今度こそ覚えてください。
「主は、神であると悟れ」と詩篇100編もはっきり勧めています。ですから、神の神秘性を汚さないように、静かな心で、お喋りを避け、自分の口から神への賛美と感謝をささげる態度を守るようにしましょう。これが出来るためにはお互いの助け合いが必要だと思います。神の名をたたえるために、この教会で、祈りの雰囲気をつくり、十字架のしるしを綺麗に自分の体に切りましょう。そして神の神聖について、また自分が受けた神の子の資格についても、良く考え、感謝して、神への賛美と感謝に対して最も明白なキリスト者になりましょう。そうすれば詩篇が勧めているように正しく「喜びのうちに神に仕えること」ができるのです。