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-14- 神の慈しみ  (2018.9.2)

 キリストが栄光の内に来られる時、世の終わりであると共に神の憐れみも終わります。なぜなら、キリストの「再臨」によって「救いの時」が完成されたからです。しかし神の愛と慈しみは永遠に続きます。と言うのは、神は愛と慈しみそのものですから。神の国で天使と聖人たちと一緒に、罪の赦しを受けた人々は一つの声になって、実現された救いを見て永遠に神の愛と慈しみを歌います。私たちはこの世に生きている限り、神の愛と慈しみに包まれて、犯した罪の赦しと弱い時の神の助けや憐れみを、いつでも受けることができます。死んでからでは、もうそれが出来ません。天国の報いや永遠の救いに私たちが相応しくなるように、母マリアは死を迎えている私たちの死の瞬間まで祈り、執り成すのです。

 神は私たちの惨めさの内にご自分の慈しみ深い心を置かれるので、私たちが救われるのです。また父なる神は、キリストの死と復活を通して、罪びとである私たちに対するご自分の憐れみと赦しを豊かに与えます(マタイ 26,28)。更に、「与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれました」(ローマ5,5)。神はご自分の愛で私たちを包み、イエスと一致させ、ご自分の愛する子となさいます。与えられている神の愛、慈しみと憐れみによって「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3,3)。

 簡単に説明すれば、慈しみは神の栄光を私たちに与え、愛は私たちを神の神聖に与らせます。私たちが神と一致するために、神の慈しみは内面的に、神の愛は外面的に私たちの内に働きます。言い換えれば、神は愛と慈しみによって私たちの体と心と魂の内に効果的に働いています。それは私たちが聖霊によってキリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊となるためです。そいう訳で「神が慈しみ深いように、私たちも慈しみ深い者とならなければなりません」(ルカ6:36)。そうすれば、詩編89編が教えている通り、私たちにとって「神の慈しみをとこしえに歌う」ことが可能となります。
 

-15- 神の赦し  (2018.9.9)

 この世では、人間の法律は犯罪人を裁き、その犯罪人を軽んじ、軽蔑し、厳しく咎めます。犯罪人が許しを受けても、絶対に正しいと認められた者になりません。しかし、神の赦しは自分の過ちを真心から認める罪人を正しい者とします。なぜなら、神は決して罪人を裁かずに、彼の回心を望み、また赦すことによって神は罪人を救うからです。 ある意味で、具体的に示されている罪びとの償いは、受けた罰ではなく、神に対する感謝の心の現われです。

 神の似姿で創造された私たちは、神を真似るように召されています。「神が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い者とならなければなりません」(ルカ6,36)。また自分の敵を赦し、愛し、親切な祈りで包むべきです。なぜなら、他人に対して自分が行った赦しと慈しみの秤(はかり)で、神は私たちに赦しと慈しみを量(はか)り与えられるからです(マルコ4,24)。

 神の赦しは絶えず与えられているので、私たちも絶えず人を赦さなければなりません(マタイ18,21)。キリスト者はイエスと同じように、愛と希望をもって赦し、神の名によって過ちを犯した人、自分を傷つけた人に救いの道を大きく開く人です。聖パウロはコロサイの信徒への手紙を通してこの赦し方を教えました。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」コロサイ3,13-14)と。

 ですから、人々を咎め、裁き、軽蔑するよりも、神のように、惜しみなく、愛で満たされた赦しによって彼らを正しい者としましょう。赦すことによって、神の救いの協力者になりましょう。

-16- 神の栄光  (2018.9.16)

                 

「神の栄光」という表現は、神そのものを意味します。神は、その尊厳・力・聖の輝きを人間の生活全般の中の実在を通して自らを啓示するからです。したがって神の栄光は目に見えるものであり、いつもその現れと密接に結ばれています。旧約聖書では煙、火の柱、地震、雷、雲、らっぱの響き(参照:出エジプト19,16)などの様々な形で神の栄光を描写しています。創造の業(わざ)もまた、神の栄光を現しているので「神の栄光が全地に満ちている」と聖書は度々教えています。

モーセは神の栄光を度々(たびたび)見たので、「彼の顔の肌は光を放っていました」(参照:出エジプト34,29)。神の栄光は契約の櫃(ひつ)の上に留まり、エルサレムの神殿を満たしました。しかし神に反したイスラエルの民が追放された時に神の栄光もエルサレムの神殿から離れました(参照:エゼキエル11,23)。目に見える栄光を通して、神は自分の民を救い、聖化し、治め、民の間に現存することをはっきりと啓示します。

預言者たちは、追放された神の民がイスラエルに戻ってのち、神がこれからはすべての人々にご自分の栄光を現すことを教えています。「わたしはすべての国々と種族とを集めに来る。彼らが来て、わたしの栄光を見る」(参照:イザイ66,18)と。特に神が遣わす「人の子」を通してご自分の栄光を現すと預言されています。「あなたは私の僕であり、わたしはあなたのうちに私の栄光を現す」(参照:イザヤ49,3)と神は預言者たちを通して約束しました。

                     (「人の子」であるキリストのうちにどのようにその栄光が現れますか、次回の教えです。)
 

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-17- キリストの栄光  (2018.9.23)

神の栄光はイエス・キリストの内に余すところなく現存していることを新約聖書ははっきり教えています。神の子であるイエスは「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです」(参照:ヘブライ1,3)。神の栄光は、キリストの顔に輝き、そこから人間の上に反映しています。イエスは正(まさ)に「栄光の主」(参照:1コリント2,8)です。

しかし、キリストが神としての栄光を完全に現すのは、再臨の時です。人の子は、父の栄光に包まれて、天使たち共に来ます。そして。ある人には罰を、他の人には救いを意味する自らの業を完成して、栄光を啓示するでしょう。新約聖書全体は、キリストにおける永遠の栄光の現れを待ち望むように勧めています。

キリストは、生涯にわたって言葉と行いによって、神の栄光を現しました。そして、復活と昇天によって「世界が造られる前に、イエスがみもとで持っていた」(参照:ヨハネ17,5)神の栄光に入りました。この栄光は天国の清さ・聖性・光・力・命に包まれたものでから、復活したイエスは、この栄光が全身に輝いています。死に瀕(ひん)した聖ステファノは「神の栄光と神の右に立っておられるイエス」(参照:使徒7,55)を見ています。パウロもダマスコへの道でその輝きのために目が見えなくなりました(参照:使徒9,8)。キリストの栄光は私たちに対する神の永遠の愛と限りのない慈しみを現しています。

(結局キリストの栄光は信じる人々の内に完成されます。それについては次回の教えです。)
 

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-18- 教会の栄光  (2018.9.30)

 キリストの栄光は信じる人々の内に完成されます。なぜなら神の栄光を認めて賛美することは、人間にとって義務ですから。信仰者は「キリストによって『アーメン』と言って神に栄光を与えます」(参照:1コリント1,20)。イエスと共に復活された私たちは、「国籍を天に持っている者として『世にあって星のように輝いています』」(参照:フィリピ2,15)。またキリスト者の良い行いを見る人が、天の父に栄光を帰することこそがキリスト者の名誉と光栄です。(参照:マタイ5,16)。

 教会がキリストによって贖(あがな)われたのは、神の栄光を賛美するためです。確かに「教会によって、そしてキリストによって、栄光が世々限りなく神に与えられています」(参照:エフェソ3,21)。キリストの花嫁である教会の栄光は、花婿であるキリスト自身の栄光です。キリストの愛こそ、この栄光の源泉です。なぜなら、キリストは「教会を愛し、教会のために御(ご)自分をお与えになって、…教会を清めて聖なるものとし、シミや皺(しわ)やそのたぐいものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御(ご)自分の前に立たせました」(参照:エフェソ5,25-27)。

 神の栄光は、このように聖書の言葉を通して示されています。この神秘こそは、神の愛と慈しみの神秘の啓示であり、私たちに対する神の救いの素晴らしい、栄光に満ちている結果です。

 


 

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