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-31-聖書的な蛇 (2019.01.06)

   およそ6000年前に書かれたメソポタミアのギルガメッシュという物語によれば、人間が苦労して命がけでやっと手に入れた永遠の命の実をある蛇が簡単に奪いました。創世記のアダムとエバの物語はギルガメッシュ物語を利用していることが明らかです。聖書全体は蛇を人間の敵として示しています。この蛇は、人間の幸福を妬み、人々の死を望んで賢く嘘と偽りを利用します。知恵の書がこの蛇に与えた名前は「悪魔」でした。(知恵2,24)

 

   エジプトとファラオもどちらも支配の象徴はコブラであり、ファラオは王冠の飾りとして2匹のコブラの冠を頭にかぶっていました。イスラエル人が奴隷にされた時に、まことの神の力と全能を示すために蛇に変化したモーセの杖は、エジプトの魔法使いが作った蛇の杖を飲み込みました。それは神がファラオの支配から圧迫していたイスラエルの人々を救うという印でした。神はイスラエルの人々をファラオの支配から解放された後、彼らを約束された地に導こうとしました。しかし、砂漠の生活を我慢できずイスラエルの民はずっと神に不平や不満を言いました。「エジプトに戻りたい」「天から下るマナよりもエジプトのおいしい食べ物を食べたい」とわめいて苦情を言いました。奴隷であったファラオの支配下に戻りたいと叫び続けたので、神は彼らに目に見える印として死をもたらすエジプトのシンボルであった毒蛇をおくりました。彼らにファラオの支配ではなく、神の保護の方が安全であり命の保障があることを悟らせるために、モーセは神の勧めに従って青銅の蛇を作りました。高く上げられた蛇を見た人は、毒蛇にかまれても死にませんでした。

 

   安息日を毎週土曜日に祝うイスラエルの人々は、今でもこの蛇の支配から解放された出来事を記念しています。このようにして、自然に蛇は神に反抗をしている者のシンボルとなったので、イスラエルの民は蛇をサタンと一致させてしまいました。またレビアタンという名でも知られています。洗礼者ヨハネをはじめ(ルカ3,7)、イエスも(マタイ12,34)神に逆らう者たちを「蝮(まむし)の子ら」と言う名で彼らを指しました。世の終りにイエスはサタンと彼に従う者を永遠に火の池に投げ込まれるそうです(黙示20,10)。

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-32悪の問題 (2019.01.13) 

     神だけが悪の神秘を説明し、解決することができます。しかし、この神秘について少しだけ説明しましょう。神が造られた被造物は、天使も人間も含めてすべて完璧でした。しかし人間に対する神の救いの計画を聞いて、それに反対した優れた天使であったサタンと彼に同意した天使たちがあっと言う間に神と人類の敵になりました。「初めから人殺し、偽り者である(ヨハネ8,44)サタンは、神の救いと愛の計画を妨げようとします。神に対してサタンは何もできないので、人々が神に反抗するように人間に対して誘惑の力を尽くします。

 

     聖書によるとサタンと悪霊は、穢(けが)れた霊であり、彼らの特徴は高慢と淫乱(いんらん)です。悪霊は人間を苦しめ、悪に誘います。人間が犯し罪は、大自然に害と災いをもたらし、人間に病気と死をもたらします。人間は悪と誘惑に対して戦いますが、悪に打ち勝っても、悪を完全に無くすことはできません。悪は神だけが解決できる暗闇の神秘です。神は悪から善を取り出す憐れみ深い全能の神です。

 

     人間は善を望むことはできても、それを実行する力は持ちません。人間は自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっています(ローマ7,19)。ただ人間になった、罪のないイエス・キリストだけが悪の根源に触れ、人々の心そのものの中で悪に打ち勝つことができます。十字架の神秘によってイエスは、悪と罪と死に完全に打ち勝ちました。洗礼によってキリストに結ばれた人は、キリストの勝利に与っています。特に罪の赦しを度々受けることによって、信者はますます罪と死に対する神の勝利を現し、サタンと悪霊たちの力は弱くなります。神は悪から善を取り出すので、キリスト者は「善をもって悪に勝ちます」(ローマ12,21)。

―33- 信仰生活の試練 (2019.01.20)

    試みは、試み(試練)を起こす3人の役者(神、人間、サタン)がいます。先ず、第1の役者は神です。神は人間の心のうちを知り(申命記8,2)、かつ人間に命を与えるために(ヤコブ1,12)、神は人間を試みます。次に第2の役者は人間です。人間も自分が神のような者であることを証明しようと試みます。しかしこの試みは、誘惑によって引き起こされたものであり死をもたらします(創世記3章、ローマ7,14)。最後の第3の役者は、誘惑者であるサタンです。

   試み(試練)は命へ導き、誘惑は死をもたらします。言い換えれば、試みは神の恵みの賜物であるのに対して、誘惑はサタンの罪への招きです。結局、試みを受ける人間は神とサタンの前で、自分の自由意志で生きることか、死ぬことかを選ばなければなりません。この試練と試みは、神の言葉を宣べ伝える人々に必ず訪れます(1テサロニケ2,4))。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(2テモテ3,12)。試みはキリストと親密に生きる恵みをもたらします。

 

    実に試みは、信仰生活の成長のための条件の一つと言えます。キリスト者にとって試練を受けるとは、聖霊を体験することにほかなりません。試練によって、聖霊の賜物がいっそう豊かに注がれるようになります。なぜなら、聖霊は既に試練のさなかで開放の働きを行っているからです。試練は、人間が神に近づくために意味深いものであることを聖書は教えています。試練と試みによって、神に対する信仰、忠実、希望、人間の自由などが強められ確かなものとなる重要な要素を構成しています。またこれらはすべてイエスが受けた大きな試練の中に結びついています。試練はこのように私たちをキリストの受難と一致させ、キリスト者を復活に導くのです。

―34-   (2019.01.27) 

    光は確かに他の被造物と同じく、神の現存を象徴的に現し、神の栄光を反映するものです。光は、神が身を覆う衣です(詩篇104,2)。知恵の書は初めて「神は光である」と宣言しました。「神は光であり、救いです」(詩篇27,1)ので、神の光、神の掟、神の言葉と教えは人間の歩みを照らします。

 イエス・キリストが人間になったのは「イスラエルの民にも異邦人にも光を宣べ伝える」(使徒26,23)ためでした。ご自分の言葉と行いによって、自分が「世の光」であることをイエスは証し、啓示しました。特に、復活の出来事によって、イエスは神の栄光であることを弟子たちに示しました。「神は光であり、神には闇が全くありません」(1ヨハネ1,5)と、聖ヨハネは証ししました。イエスは神の子として「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです」(ヘブライ1,3)。 

 キリストを信じ洗礼を受けた人々は、「神の子」・「光の子」、つまりキリスト者も神の栄光の反映を現す使命を受けました。私たちは「光の子として生きていかなければなりません」(エフェソ5.8)。光なる神と一致して留まるには、光の中を歩むことが肝心です(1ヨハネ1,5-7)。よい行いを実現することで(マタイ5,14-16)キリスト者は自分自身も世の光となって、イエスから委ねられた使命に応えるのです。

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